「いい大学」
ついこないだ、全国の中学生約100人と一緒に、1週間の合宿に参加してきました。
中学生が自分の将来の夢を考えるお手伝いを大学生がするという、サマースクールです。
全員が24時間中学生のことだけを考え続けて、参加者みんなが新しい発見を得た、本当に濃厚なプログラムでした。
人の価値観があんなにも激変する瞬間をお手伝いさせていただけて、めちゃくちゃ光栄な機会をいただけたなとつくづく思います。
そんな中で、
「いい大学に入って、いい会社に入る。」
そんな価値観の子どもたちがあまりにも多かったので、考えずにはいられませんでした。
子どもたちがひとりでに「いい大学」と言うわけは無いと思うんです。
親御さんなり学校の先生なりが、
「ご飯は残さず食べましょう。」
「夜は早く寝て、朝は早く起きましょう。」
と同じようなテンションで、子どもたちの耳にたこができる程おっしゃっていたんじゃないかと思うと、とても悲しくなってきました。
京都に帰ってきてからも、彼らにもっと何を言ってあげればよかったのか、ずっと頭の中でぐるぐるしていました。
そして、ほんのちょっぴりわかったような気がしたので、何の役に立つものでもありませんが、ここで吐露してみたいと思います。
今回の合宿を運営してくれたのは、いわゆる「いい大学」と言われる名門大学の学生たちです。
彼らは間違いなくすごいです。
合宿のための的確なグループワークを作成するだけでなく、
その意義と方法を他の大学生全員にわかりやすく共有してくれて、
みんなが協力し合える雰囲気作りまでが丁寧で、
なにもかも素晴らしいなと感じました。
結果、中学生のみならず、参加者全員がこの1週間で新しい発見をたくさん持ち帰ることができる合宿となりました。
しかし彼らのことを、
「いい大学に入っているからすごい。」や
「すごいからいい大学に入っている。」
などと言ってしまうのはあまりにも失礼だと感じました。
今回の合宿に参加した大学生は全員、
「目の前のことに本気になれるからすごい。」のだと思います。
何が必要で何が不必要か、納得いくまで洗練させてワークを作る。
中学生が目的を見失っていたら、予定になくても時間を取って全体へ話す時間を取る。
大学生の気持ちが沈んでいたら、本人よりも先に異変に気づいてフォローをいれる。
自分で課題を見つけて、
本気で解決策を考えて、
本気で実行する。
この繰り返しを積んできた量が、人を動かす能力と比例するのだと、彼らを見ていて学びました。
本気の人間を前にすれば、人は本気になるのだと、今回の合宿で目の当たりにしました。
それが全て大学のおかげだなんて言ってしまうのは本当に失礼な話だなと思いました。
私自身がそこまで高いレベルの大学にいるわけではないですし、彼らがどんな授業を受けているかなどは全然知りませんから、説得力がいまいちかもしれませんが、肌で感じた率直な感想です。
そうすると、じゃあ一体「いい大学」ってなんなのでしょう。
結局答えを出すのに私は1週間では足りなくて、京都に帰ってきてからもモヤモヤと考え続けていました。
そこでふと、ある本のことを思い出しました。
北野武『新しい道徳』です。
日本の道徳の教材に、たけしさんがツッコミをいれまくるという内容の本です。
本のサブタイトルは、
〜「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか〜
本書の中には以下の様な文章がありました。
まるでクスリの効能書きみたいに「いいことをしたら気持ちいいぞ」って書いてある。
誰かに親切にして、いい気持ちになるっていうのは、自分で発見してはじめて意味がある。
大人が心にもないことをいっている限り、子どもには伝わらない。
道徳の時間は、本音で話さなければ、教える教師にとっても、子どもにとっても退屈で無駄な時間でしかない。
「考える習慣」をつけてやること以上の道徳教育はない、と俺は思う。
世間一般で言われている「いい」を、まるで数学の答えのように普遍的な正しいものとして押し付けて、でも当の本人たちはまじめに考えてないんじゃないの?
もはやそれは”洗脳”に近いよね、というようなことが書かれていました。
これって、道徳に限ったことじゃなく、大学もそうなんじゃないでしょうか。
大学名にこだわっている人に限って、
「いい」について考えることを、人任せにしているように思えてなりません。
子どもたちにとって重要なのは「いい大学」に入れることではなく、
「いい」って何なのかを一緒に考えてあげることなんじゃないかと思います。
合宿期間中、「いい大学」「いい大学」と呪文のように唱えて宿題ばかりしている目の前の子どもの親御さんは「いい大学」の意味が答えられるのかな、と考えたとき、少しぞっとしてしまいました。
もしなんとなくの風評に流されて言っているだけだとしたら、
子どもたちの意見もあまり聞かずに言って満足してるだけだとしたら、
こんなに無責任なことはないからです。
子どもたちにどんな質問をしても、
「なにがいいんだと思う?」と何度か尋ねると、
「お母さんが言ってました。」という返事でだいたいは終わってしまいます。
「親は子の手本でなくてはいけない」というようなことがよく言われますが、
親側にそんな意識があろうがなかろうが、子どもは勝手に親のことを手本にします。
その子にとって一番「いい大学」かどうかなんて、他の子と比べたところで答えは出ません。
そもそも「いい大学」が何かなんて、わざわざ言わなくてもいいし考えなくてもいいと思います。
そんなことよりも、目の前の子どものことをちゃんと観察してあげてほしいと心の底から思いました。
自分の子が何が好きで、何が嫌いで、どう頑張る子で、何に悲しむのか、何に本気になれるのか。
その中で「いい」ことをしていたら褒めて、「悪い」ことをしていたら叱ればいい。
親御さんはそれだけで毎日がいっぱいいっぱいのはずです。
それをないがしろにして、その子の将来をみんな「いい大学」とやらに丸投げしていたのでは怠慢なんじゃないかと思ってしまいました。
1周間の合宿での大学生たちの姿を、親御さんたちに見せてあげたいと何度も思いました。
そこには「いい大学」に入るヒントがあるわけではありません。
学歴や年齢なんて一切関係なく、ただひたすらに子どもたちと向き合っている男の子や女の子がいるだけです。
その光景を見ても、まだ「いい大学に入れ」とだけ言うのでしょうか。
「いい大学」とは、卒業するときに「いい大学だったな」と本人が思えればそれでいいんだと思います。
要は、純粋で素直な子ども時代に、「いい」「悪い」の判断基準となる材料を、周りの大人がどれだけ提示してあげられるかが大事なんだと思いました。
今回の合宿で私ができたことなんてほとんど何もありませんが、
ペアの学生に助けてもらえたおかげで、チームの子達は多くの学びを得てくれました。
思いついたらできるだけ手や口を動かすように心がけましたが、何がどこまで響いているのかなんてわかりません。
だから周りを見て聞いて感じたことを少しでも伝えられたらと思い、この文章を書きました。
大学生チューターの皆さん、
スタッフのみなさん、
そして、この合宿のお話を持ってきてくださった達哉さん、
本当にありがとうございましたm(_ _)m